Blog

本音で語り合える相手がいるということは人生において一番の幸福

 ←10月6日魔術儀式 →ソウルメイト
最近の私のテーマというか、よく考えることは「幸福」「幸せ」についてなのだけれど、自分は運というものを扱う仕事をしているのだけれどよく運とは何かを人に説く時にこう考えている。

「自分の希望が叶う、願望が叶う、意見が通る、望む現実がおこる」


そう、自分がこうしたい、なりたいというのがそのまま現実化すると人は運がいいと思うのである。


しかし、果たしてそれが本当にいいことなのか?どうなのか?

結果として、そういうことが起こった時に、良かったとはいえない場合が多いのである。


人間というのは、嫉妬するのは自然なことで、自分がうまくいっていないときに誰か他人の幸福など望めないのだ。
そして、自分が好きだと思わない相手に対してはよりそうなのである。


本能的に、自然界の生命というのはよっぽどのことがない限りは協力関係にあることはない。

目的が同じ場合は、利害関係が一致するので協力する。


糧を得るとか、外敵に襲われないように住まいを同じく共にするとか。


人間はそこに理性というものが加わるので、よりややこしくなるような気がする。



ただ、嗜好品とか、本来必要でないものについても人間は楽しむために発展させてきたわけなのだけれど、やはり他の生命にはない楽しみ事だったり、さみしさを埋め合わせるために集ったりするのである。


本音で語り合えるというか、素の自分を出せる相手や環境がいるとマイペースでいられるし、自分の人生を踏み外すことはないとは思うのだけれど、誰かの評価が重要だったり、誰かに勝とうとして何かをしているとそういうものがなくなってしまう。


そういう人を、たくさん見てきた。


友人というものは、評価も勝敗もなく、ただ楽しむ関係である。

自分をだしてもいい関係だし、語り合うことで互いに触発したり、成長したりする。


現代であろうと古代であろうと、そういう関係がない人生なんてつまらないよとよく目に見えない存在達は言うのだけれど、確かにそうだなと思うことがよくある。


私自身が、目的として何かを成し遂げることや築くことは大勢の親しき人たちとシェアできるので大事だと思うけれど


「自分自身の立場や得たもの」


について固執しないのは、そういった理由からである。


立場や得たもの築いたものは、自分ではないのだ。


自分自身というものはもっと抽象的で、感性的なものであって、いつも変動している実態がないものだ。

だから、自由であることは最高のしあわせのようなものなので、じぶんが得たものや今あるじぶんのかたちというものは


「いつかはなくなってしまうもの、崩れてしまうもの」


としていつも考えている。



もし1番だとしても、それは1番になったところでいつかは3番とかドベとかになるものである。

1番というものがあればそうでないものがあるのだ。


そして、何より、存在というものは変化がつきものなので、変化しないわけがないので何かを決めつける事も、存在を歪めてしまうものになってしまうのだ。


否定も肯定も、目的が成長であったり変化であればその行為は意味があるものだ。
しかし、それが批判的であって、自己肯定が何かを埋め合わせるための認証欲求であれば無意味なのだ。



人間は、恐れというものが人生にはつきものなのですぐ何かを恐れてしまう。

しかし、恐れは誰もがもっているものでどうつきあうか、むきあうかなのだ。


なくすことはできない。しかし、自分の内なる産物との付き合い方を学ぶために誰もが自分自身を選んで生まれてくる。


そして何より、友人、親しい人間というのは自分の精神世界のあらわれであってそこに敵が多いと思えば、自分自身の恐れが反映している場合もあるし、自分のモチベーションをあげるためにわざと妨害が多く成長が多いように道がある場合もある。


一概にはいえない。

どんな妨害があったとしても、必ず親しきものというものはできる出会いはある。

もしいなければ、それは自分自身に問題があると考えて向き合うべきだ。


自分が変われば世界は簡単にかわるからだ。



柔軟な精神をもって自分の世界に挑めば、世界も柔軟に動いていくのだ。



親しむ関係にある多くの人たちと笑顔のある、ユーモアのある時間をすごすことができること。

幸福というのは、これに尽きると今のところだけれど私は思うのだ。



ミシュランの美味しいフレンチも、ゲットーな駅の立ち食い蕎麦やで親友と食べるうどんには勝てないのだ。


ミッドタウンのリッツのラウンジで飲むコーヒーも、親友と飲みながら歩くマックシェイクには勝てない。


そう思う今日この頃だ。



親友とか親しい人がいないと思う人は、こうしたらいいと思う。


相手に嫌われてもいいと思って、真剣にぶつかること。


自分がもてるだけの愛情を相手にそそぐこと。
とにかく与える事。


そして相手のすべてを受け入れるということ。

それは、どんなことがあってもそばにいること。


苦難をともにすること。


相手の問題も、自分の問題と同じように向き合うこと。いっしょに考える事。



そうしていればいつかは必ず、しあわせというものを感じるのではないかなと思う。



そして、親友というものがそばにいてもいなくても、距離があっても時間があいても、あいかわらずな関係であることができる。


時間も距離も、年齢も、すべて関係ない。

そこにあるのは絆だ。


このひとでなければだめだ、ということがたくさんある。


このひとでないと話せない、感じられない思いというものがやまほどあるときに私は幸せを感じる。



だから、ものやお金、自分の出世、いろんなことが目まぐるしく動いていてもたいして感動はそこにはない。


それよりも、しんどいなとか楽しくないなつまんないなとか思いつついろいろ大変なことを乗り越える中で感じられる神秘だとかミラクルな出来事とか、不思議なシンクロとか体験とかに感動する。


そういう人生を愛する心をもっとたくさんの人が、持てるといいなと思う。



人生で与えられる出会いというのは、どれも特別で、普通のものは1つもない。

しかし、人間というものは誰もが普通だ。
どんな特殊にみえるひとでさえも、平等という意味で、みんな普通だ。

普通に、人生をおくっている。

死ぬときはみんなひとりだ。


だけど、生まれてから、死んでいくまでにたくさんの人と出会う。



そのたくさんの人たち、みんなと分かり合うことはもちろんできない。

分かり合うことができないから、分かり合うことができる。


相対的だからいいのだ。意味が分かる体験があれば、学ぶことも気づくこともできる。


だけど、ただ1人で生きているというのはつまらない。

時には親友の前で本音を語って泣くことも大事だし、誰にも言えないみじめな想いを伝えることも大事だ。
そうした行為の結果、癒しだったり感動だったりよろこびだったりが待っている。


そういうものなしに、人生は醍醐味を感じることもできないし、よろこびもない。


よくテレビドラマをみたり小説をよんで、人はその世界に引き込まれる。

私はそうしたものに夢中になることはこの8年くらいはとくにないのだ。


自分の人生のドラマを生きているので、いつも感じることや想いが変化している。
そこに少なからず成長はある。


よその世界ではなく、自分のドラマに夢中になれば、皆自分の人生に恋をするようになる。


真剣に生きて、真剣に悩んで、真剣にひととぶつかる。



それが、道というものだ。


道を歩くときに苦難なくして語れない。
成長も学びもない。



スポンサーサイト



もくじ  3kaku_s_L.png Blog
もくじ  3kaku_s_L.png 妖精
もくじ  3kaku_s_L.png 魔術
もくじ  3kaku_s_L.png 遺跡の発掘
もくじ  3kaku_s_L.png 東洋の呪術
もくじ  3kaku_s_L.png 過去世
もくじ  3kaku_s_L.png 旅行記
もくじ  3kaku_s_L.png 夢日記
もくじ  3kaku_s_L.png ホラーな思い出
もくじ  3kaku_s_L.png へたくそ漫画
もくじ  3kaku_s_L.png 魔女ブランド
もくじ  3kaku_s_L.png 戦争
もくじ  3kaku_s_L.png オカルトネタ
もくじ  3kaku_s_L.png majyoの豆知識
もくじ  3kaku_s_L.png 音楽

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。

~ Trackback ~

卜ラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

【10月6日魔術儀式】へ  【ソウルメイト】へ

INDEX